HOME | 100周年歴史
教室創立100年の歩み

東京歯科大学歯科矯正学講座客員教授
末石研二 
 
 本学の創設者である高山紀齋は 1872年 (明治5年)に米国にわたり、サンフランシスコでDaniel Van Denburghに師事した。米国の歯科医術開業資格を得て、明治11年に帰国し、銀座で開業している。1890年(明治23年)に、現存する歯科医学教育機関の前身としては最も旧い「高山齒科醫学院」を創設した。著書である保齒新論(1881年) は日本における初めての歯科の教科書であり、「鹺跌論」の章は、不正咬合についての記述である.日本における近代歯科医学教育の黎明期を迎えたといえる。
 高山齒科醫学院における歯科矯正に関する教育は病理学において、青山松次郎により講義がなされたと思われる。青山は高山齒科醫学院講義録「歯科一班」の中で歯科矯正学の部分を執筆し、また、同講義録「齒科病理学」(1890-1892年)は、「歯牙の不正」から始まり外傷、消耗と続いている.さらに、懸賞問題として、「歯牙不正列の原因及びその矯正術如何」という問題を出した(1891年)という記載が残っている.このように不正咬合に対する教育は本学の創設期からすでに開始されていた。
 
 血脇守之助は1893年に高山歯科医学院に入学、1895年に歯科医師開業資格を得た。1900年に高山紀齋より高山歯科医学院を引き継ぎ、東京歯科医学院を開設した。東京歯科医学院では、第1輯東京齒科醫学院講義録(1900-1901年)に青山松次郎による「歯列矯正術」が出版されており、病理学から独立したことが分かる.第2輯東京齒科醫学院講義録(1902−1904年)には血脇守之助(総論)と佐藤運雄(各論)が連名で、「歯科矯正学」と題して発刊した。血脇の草稿を次いで佐藤が追加したものと考えられている。さらに第3輯新纂歯科学講義(1907-1910年)では佐藤運雄が「矯正歯科学」の著者となっている。
 本学の建学者が歯科矯正学の講義録を出している事実は、歯科矯正学を教授するものとして、本学の黎明期からの伝統に立脚できたという思いで、大変感動するものである。
 この本の出版に当たり、血脇はE.H.Angleに図の転載許可を求め、そこからAngleとの交流が始まっている.すなわち、Angleと血脇の交流を示す資料として1901-1903年の間に交わされた5通の手紙がAngle Archives(1899-1910)に存在する(Sheldon Peck氏のご厚意による)。これらによると、1901年12月に血脇はAngleがDental Cosmosで発表した床矯正装置の図を自身の矯正教科書へ掲載する許可を願いでている。1902年1月にAngleは掲載許可の返事を送っている。それに対して2月に血脇はすぐにお礼の返事を出している。そして、4月にAngleは血脇に長文の返事を送って敬意を表している。その内容は、日本は矯正の歴史が浅いから米国と違って、過去にとらわれることなく最新の正しい学問を導入できるだろうと伝え、装置ばかりに目を向けずに、顎顔面形態、咬合、成長発育、診断と治療方針の立案にもっと重きを置くべきだと伝えている。そして、最後にお金を払うので日本の本当の伝統的な骨董品を送ってほしいと述べている。その後、Angleは日本では手に入れることが難しいだろうと ”Treatment of Malocclusion of the Teeth 6th edition”を送り、血脇は日本の歯科学教科書、Tokyo Dental College journalを送っている。また、1902年10月にはAngleはKirkに血脇を4th International Dental CongressのOrganizing Committee for Orthodontiaに推薦している。
本学で二人の交流を示す資料を探したが、見つけることができなかった。しかし、血脇が1922年の6ヶ月間の欧米視察中にLos Angelsで南加大、加州大を訪問した折に、当時パサデナに移り住んでいたAngleに会ったという直接の記録はないが、「矯正学大家イー・エス・アングル氏」にお土産として美術品の「クッション」を献上したリストが残っている(血脇守之助「見たまま聞いたまま」歯科学報 27 (11):50-58,1922 (大正11年).)。さらに、Angleの死を悼み、1930年に日本矯正歯科学会主催で本学において、故Angle博士追悼記念会が開催されている。血脇守之助、榎本美彦、松本 茂、寺木定芳らが記念講演を行っている(アングル博士追悼記念会記録 歯科学報 35(11)別冊 昭和5年)。これらのことを考え合わせると、Angle Archivesにある資料の3年間だけでなく、その後も二人の交流は続いていたと考えるのが妥当である。このように血脇は早くから歯科矯正学の重要性を認識し、積極的にアメリカ矯正界の重鎮であるAngleとの交流を深め、日本の歯科矯正学の発展に大きく寄与したと考えられる(本項は野嶋邦彦先生の協力による)。
 
 佐藤運雄は、高山歯科医学院を1898年に卒業し、シカゴにあったレーキフォレスト大学を、ついでシカゴ大学を卒業して、1903年に日本に戻り、東京歯科医学院講師に、翌1904年には東京帝国大学医科大学講師となり、1907年には東京歯科医学院教授となる。しかし、教授になったその年に満州へ赴任のため、退官した。のちに、東洋歯科医学校を創設し、日本大学の歯学部の基礎をつくる。第3輯新纂歯科学講義に「矯正歯科学」を上梓したことは先に述べた。
 
 佐藤運雄の跡を継いで、寺木定芳が1908年に教授に赴任する。寺木は、早稲田大学の英文科を卒業後、米国メリーランド大学を卒業しており、その後セントルイスにあったアングルスクールを卒業している。治療はAngleの歯列拡大装置を用いるものであった。1908年に帰国し、東京歯科医学院の教授に赴任した.寺木は1913年に「歯科矯正学綱領(Essentials of Orthodontia)」を上梓するが、その後、1914年に退職し、翌1915年には日本歯科医学専門学校の教授となる。
 
 寺木定芳の後任には、榎本美彦が1914年に教授に赴任する。榎本は市橋美彦として生を受け、長崎の歯科医師のもとで学び、開業試験に合格した後、アメリカに渡り、1911年にカリフォルニア州立大を卒業する。卒業後、サンフランシスコで開業していたが、その間もカリフォルニア州立大学に通って矯正の勉強を続けていた。矯正科の教授はDr.SaggetとDr.R.A.Dayでアングル学派の系統であるという.また、Dr.Dayはアングルスクールの1907年のクラスに属し、寺木定芳の同級生となるという。1913年に一時帰国したが、駿河台にあった榎本家に養子として入り、翌年に東京歯科医学専門学校の教授に就任した。なお、養父、榎本積一は1892年に日本で最初に矯正の症例報告を行なっている。
 1906年(明治39年)に医師法・歯科医師法が公布され、同法に規定する公立私立歯科医学校指定規則がその半年後に発布される.それに基づき、東京歯科医学専門学校が1907年に認可される.その後、順次施設が拡充され、1914年(大正3年)11月には血脇歯科診療室を廃業し、校舎に編入した.同年10月に榎本美彦は東京歯科医学専門学校に赴任し、補綴部の中に矯正科が開設され、学生実習が開始された。すなわち、1914年は日本で最初に歯科医学教育機関の附属病院で矯正治療が始められた年となる。後年、教授となった齋藤 久は当時最終学年の3年生で、第1号の患者を担当した.榎本は開業していて、土曜日に臨床講義と臨床実習指導にあたった。そのため、後に名誉教授となった堀江銈一(補綴学)が矯正科の最初の助手として勤務した.翌年には、齋藤 久が研究科に在籍し、後年榎本は「多数の学生の中で矯正臨床に最も熱意を持ち、且つ暫時に殖えてくる患者の殆ど大部分を受持って、「東歯のクリニックに矯正あり」と世間に知らしめたのは実に今日の斎藤 久教授であった」と懐古されている。診療科の開設とともに助手がおかれ、教育と診療とが開始されていったと言える.1918年(大正7年)5月の学則には、教授 榎本美彦(歯科矯正学・同実習、臨床講義)、助手 齋藤 久(矯正学実習、臨床実習)とあって、臨床基礎実習も開始されていた事が伺われる。
 1926年(大正15年、昭和元年)にボストン在住の藤代真次が一時帰国した事を契機に、在京の矯正関係者により日本矯正歯科学会が結成された。岩垣によれば寺木定芳が押されて初代会長になるはずであったが固辞され、榎本が会長に納まったという。以後、1937年(昭和12年)4月までの長きにわたって会長を務めている。1930年のAngle追悼集会については前述した。1932年(昭和7年)には第1回矯正歯科学会が開催され、榎本の開会の辞は日本矯正歯科学会会誌第1巻(1933年)に掲載されている.なお、学会の経費の多くが榎本、多胡謙治両先生のポケットマネーでささえられていたと榎 恵が懐古している。
 榎本は寺木が執筆せず、辞任する原因の一つとなった歯科学講義(1912−17)「矯正歯科学」を上梓する。さらに、歯科学叢書として準備し、関東大震災(1923年)に遭ってほぼ完成していた原稿と資料を失うなか、その後7年の歳月をへて1930年(昭和5年)に「新纂矯正歯科学Modern Orthodontics」を上梓している。1941年(昭和16年)には第4版が出版された。自身の治験例を中心にした、本文672頁に及ぶ大著である。
 臨床家としては、1934年(昭和9年)に「過去10ヵ年間の矯正臨床における余の功罪」と題した発表を行ない、榎 恵をしてその先見性とプロフェッショナルな態度に強烈な印象を与えられたと懐古させている.また、1944年(昭和19年)に還暦を迎えた榎本は「長期の責任を果たせない」という理由で矯正治療はやめるという脱矯正宣言を行なっている。文字通り、日本に矯正学の種をまき、大樹に育て上げた先達の一人にして、誠実な臨床家であったと言える。
榎本は1949年(昭和24年)に旧制東京歯科大学を退職した。
 
 榎本美彦の後任には齋藤 久が教授となる。斎藤は神田駿河台に生まれ、東京歯科医学専門学校を1915年(大正4年)に卒業し、研究科に在籍する。その後、助手を経て、1919年(大正8年)に助教授となる。歯科矯正学、歯牙解剖学担当であった。
 1922年(大正11年)に東京歯科医学専門学校は5部制診療体系となり、矯正科は補綴部より独立した部に昇格した。斎藤は矯正部主任に任命され、発展が期待されたが、 翌1923年(大正12年)に関東大震災に見舞われ、3部制へと戻る事になる.東京歯科医学専門学校は関東大震災と大恐慌という苦難を乗り越え、再興していく。その中で、齋藤はライプチッヒ大学へ留学(1931-2年/昭和6-7年)し、欧州で開催された国際矯正歯科学会議(1931年)、第8回国際歯科医学会議(同年)に日本矯正歯科学会代表として出席をした。帰国後、1933 年(昭和8年)に齋藤は東京歯科医学専門学校教授に就任する。付属病院においては、歯科医師法改正に伴う専門科名制定により4部制診療体系となり、矯正部として独立し、齋藤が矯正部長となる。医局長は立原健彦。大正3年に榎本により開始された専門学校における矯正治療の臨床教育がここに結実し、独立した診療部と研究,教育を行う矯正学教室が成立したと言える。1938年(昭和12年)には日本矯正歯科学会会長となっている.なお、1938年(昭和13年)には榎本に代わり齋藤が矯正学講義を継承している。
 
 当時の矯正治療について、東京歯科大学70周年記念誌「矯正学教室」に以下の記載があり、転載する。「矯正臨床実習においては、大正3年頃はすべてアングル式で、歯穹拡大線をそのまま使用した。材料は、洋銀線に金メッキした。太さ直径1.2mmぐらいの太い線を使っていた。その後、大正10年前後から、貴金属線を使用することになり、ルーリー(Lourie)の唇側装置や、ムシャーン(Mershon)の舌側装置が流行するようになった。そして昭和の初期には唇側装置と舌側装置とが相半ばして使用されるようになった。矯正装置の選択は自由であったが、学生時代に、自分の腕で、自分の思った方向に、正確に歯を動かす技術を習得する事が、先ず、第一に、必要な事と考えられるので、正確な、しかも理解し易い矯正力を発現することのできる唇側装置を主として使用させることにしていた。」また、齋藤の留学時の論文「Über die Entwicklung der Orthodontie in Japan(日本における歯科矯正学の発達)」に当時の矯正装置が詳述されている。(一色泰成:戦前における日本の医学・歯学と矯正の発達.臨床矯正ジャーナル11号、2005.)
 この後、日本は1937年(昭和12年)に始まる支那事変、日中戦争から第二次世界大戦へと戦乱の時代へと突入し、学生の動員、学童の集団疎開が実施され、矯正患者の大部分を占める学童が疎開し、また、本学学生も秋田へ疎開するなど、本学における矯正治療は中止へと追い込まれた。
 
 1945年(昭和20年)に日本は敗戦を迎える。GHQによる歯科医学教育制度の改革が行われ、歯科教育審議会(1946年/昭和21年)が設置され、東京歯科医学専門学校は東京歯科大学設立認可(同年)を受ける。また、1952年(昭和27年)には、新制東京歯科大学として承認される。
 齋藤は、学制の変更に伴い、1949年(昭和24年)に東京歯科大学教授となる。戦後の動乱期にあたり、大学の存続、付属病院の再興に尽力し、また、昭和28年には東京矯正歯科学会会長に就任した。なお、時代背景を象徴し、日本矯正歯科学会は1948年(昭和22年)に解消し、1958年(昭和33年)に再度結成されている.1962年(昭和37年)に定年退職を迎えた。
 齋藤 久は東京歯科医学専門学校に榎本によりもたらされた歯科矯正学を着実に発展させ、教室の基盤を作り、発展させた。時代は関東大震災から金融恐慌、そして日中戦争、第二次世界大戦を迎え、灰燼と化した焦土より戦後の復興の時期にあたって教授を務めている。その労苦は想像に難く、功績は極めて高いものと言える。
 
 齋藤の後任には山本義茂が教授となる。山本義茂は明治44年東京神田須田町に生まれ、1932年(昭和8年)に東京歯科医学専門学校を卒業し、口腔外科学教室に副手そして助手として勤務するが、1935年(昭和10年)に矯正学教室に助手として配置換えとなった。矯正科が部となり、齋藤 久のもと、教室としての体制を構築する時期にあたる.講師,助教授をへて、1955年(昭和30年)に東京歯科大学教授に就任し、1961年(昭和36年)に矯正歯科部長、1962年(昭和37年)には齋藤の退職を受け、主任教授に就任した。
 山本は、戦中、戦後を通じて、齋藤とともに矯正歯科の復興、再建に尽力している。戦後から昭和30年代前半における矯正治療は戦前からの歯穹拡大弧線や舌側弧線によるものであり、歯の移動のコントロールは不十分であった。戦争により途切れていた海外との交流が昭和30年代後半より急速に復活し、新しい矯正器材や技術が導入された。Universal appliance、Edgewise technique、Begg technique、Jaraback technique など、その材料と技術が競うように導入されたが、東京歯科大学ではいずれを導入すべきかの判断が難しく、総べて導入し検討したという.その中で、山本は矯正学教育に対する一貫性の必要を痛感していた。主任教授就任2年後の1964年(昭和39年)に欧州〜米国にかけての海外視察を行い、欧州では床装置、米国では線矯正装置を用いており、全般的にはEdgewise装置を使用しているとの視察結果を得た。その結果、東京歯科大学にエッジワイズ法を導入すると決定している。また、ワシントンのH Suyehiroに会い、日本での講演を依頼している。昭和42年にはH Suyehiroが来日し、米国矯正事情について講演した.さらに、昭和45年には教室の佐野、大川両先生が再度訪問し、H Suyehiro、RV Herwick、TL Dikemann、SN Asahino による日本で初のEdgewiseのタイポドント講習会が東京歯科大学にて実現した。2年後には東京矯正歯科学会でのDr.Syehiroによる講習会があり、東京歯科大学にEdgewise法(Suyehiro法)が定着する。その後、小坂、古賀両先生のTweed コース受講とSt.Louis University、Loma Linda University の卒後研修課程の資料入手を元に矯正歯科卒後教育のあり方が検討された。その結果、1975年(昭和50年)に 矯正学教室内規に基づく卒後研修課程の発足をみている。これは山本義茂を始めとする矯正学教室教室員の英断であり、高度な矯正歯科治療法の実践に伴う、矯正歯科専門教育制度の導入と言える.
 山本は 1977年(昭和52年)に退職を迎えるが、その間、日本矯正歯科学会副会長(1964-65年)、東京歯科大学病院長(1971-77年)などを歴任する。また、1978年から第11、12期日本学術会議会員として活躍した。
 
 山本の後任には、瀬端正之が教授となる.瀬端は1930年(昭和5年)に埼玉県に生まれ、1954年(昭和29年)に東京歯科大学を卒業する。助手、講師を経て1973年(昭和48年)に東京歯科大学教授となり、前任の山本の定年を受け、1976年(昭和51年)に東京歯科大学歯科矯正学講座主任教授に就任する。
 瀬端は山本のもとに発足した歯科矯正学講座卒後研修課程を引き継ぎ、着実に発展させた.卒後研修課程第1期生による修了症例を第37回日本矯正歯科学会大会(大阪、1978年)において発表し、以後、毎年の発表を通じ、高い外部評価を受けている。また、同年に瀬端は大学命により海外出張を行い、米国における歯科矯正学教育の現状を視察している.ADAの定めた基準カリキュラムに基づいた教育内容とその運営、訪問した大学の特徴と学外からの指導医の役割など、見聞を広め、本講座卒後研修課程を揺るぎないものとした。また、同年には議員立法により矯正歯科の標榜が可能となり、矯正歯科の社会的認知が進む事となった。
 1981年(昭和56年)9月1日に、東京歯科大学は千葉校舎および千葉病院を完成させ、千葉市に移転した。同年、教授となった一色泰成が水道橋病院矯正歯科主任となった。翌1982年(昭和57年)に山口秀晴と谷田部賢一が助教授へ昇任し、瀬端教授の元、歯科矯正学講座の新たな体制がスタートした。
 同年6月には、身体障害者福祉法の規定により、千葉病院矯正歯科は歯科矯正に関する厚生育成医療を担当する医療機関と認定され、唇顎口蓋裂患者に対する矯正治療が健康保険で実施される事となった.その後、平成2年7月には顎変形症に対する、顎の離断手術前後の術前術後矯正の担当機関として指定され、健康保険が導入されている。標榜科名の実現に始まるこれらの医療制度改革は矯正歯科治療の社会的認知向上の現れであるといえる。
 1986年(昭和61年)に瀬端は第45回日本矯正歯科学会大会長となり、千葉県文化会館において同大会を主催した.特別講演の演者急病による変更などハプニングもあり、教授以下、医局員総出での運営であった。
 瀬端は昭和の動乱期から平成に至る時期に在籍し、矯正治療技術の発展と社会からの認知、専門職としての矯正歯科医の育成とを体現した教授である.韓国からの留学生に始まり、台湾、中国からの多くの留学生を育て、また各国で講演、実習等にあたっている。その時代に医局で育った多くのものが、Bioprogressive法やStraight wire法などのEdgewise Systemの日本での展開に主体的に関わり、また、外科的矯正治療や口唇口蓋裂治療についても深く理解し、社会的には日本臨床矯正歯科医会などを通じて活躍している.有為の多くの矯正歯科医を育てた功績は大なるものと言える。
 瀬端は1995年(平成7年)に定年退職を迎えるが、その間、学外では日本矯正歯科学会理事(1974年)、東京矯正歯科学会会長(1980年)、第45回日本矯正歯科学会大会長(1986年)などを、また学内では千葉病院病院長(1992年)などを歴任する。
 
 瀬端の後任には一色泰成が主任教授となる.一色は1935年(昭和10年)に愛媛県に生まれ、1961年(昭和36年)に東京歯科大学を卒業した。1965年(昭和40年)に東京歯科大学大学院歯学研究科(歯科矯正学)を修了する。助手、講師を経て1981年(昭和56年)に東京歯科大学教授となり、前任の瀬端の定年退職を受け、1995年(平成7年)に東京歯科大学歯科矯正学講座主任教授となる。
 障害者への歯科治療に造詣が深く、1973年(昭和48年)には心身障害者歯科医療研究会を結成し、後の日本障害者歯科学会の基礎を築いている.骨系統疾患を始めとする先天異常疾患に対する深い知識より、唇顎口蓋裂の歯科矯正治療法の標準化に関する研究を行い、その集大成は著書「唇顎口蓋裂の歯科矯正治療学」に結実した。
 一色は2001年(平成13年)に定年退職を迎えたが、その間、日本障害者歯科学会理事、日本レーザー治療学会理事、東京矯正歯科学会理事、日本全身咬合学会理事などを歴任され、東京矯正歯科学会(1998—1999年)では会長の重責を務めている.
  
  一色が1989年(平成元年)に千葉校舎へ移動となり、同年、谷田部賢一助教授が水道橋病院矯正歯科主任として赴任した.その後、2000年(平成12年)に 教授に昇任した。
 谷田部賢一は1940年(昭和15年)に茨城県に生まれ、1967年(昭和42年)に東京歯科大学を卒業する。1971年(昭和46年)に東京歯科大学大学歯学研究科(歯科矯正学)を修了する。助手、講師をへて2000年(平成12年)に 教授となる。2005年(平成17年)には水道橋病院に口腔健康臨床科学講座が新設され、同講座歯科矯正学分野の教授に配置換えとなった。山本、瀬端両教授時代から多くの研修医を育て、深い臨床的洞察を与えている。SWA法とアンカースクリューを用いた先端的治療と咬合理論に裏付けられた取り組みは水道橋病院矯正歯科の水準の高い矯正治療の基盤であった。2006年(平成18年)に定年退職し、後任は末石研二準教授(当時)であった。
 
  一色の後任には山口秀晴が主任教授となる。山口は1942年(昭和17年)に東京に生まれる.1967年(昭和42年)に東京歯科大学を卒業した。1971年(昭和46年)に東京歯科大学大学歯学研究科(歯科矯正学)を修了する。助手、講師、准教授を経て2001年(平成13年)に東京歯科大学歯科矯正学講座主任教授となる.
 外科的矯正治療に関する造詣が深く、本邦における口腔外科とのチームアプローチを早くから確立し、手術成績を向上させた。形態と機能との関係を研究テーマの一つとし、口腔習癖に対する口腔筋機能療法の重要性を認識され、口腔周囲筋の圧力測定という古く、そして新しいテーマに取り組まれた.また、講座における分子生物学的研究の構築に尽力された。
  山口は2007年(平成19年)に定年退職を迎えたが、その間、日本顎変形症学会理事、日本矯正歯科学会理事、日本口蓋裂学会理事等を歴任され、2006年(平成18年)には第16回日本顎変形症学会大会長を務められている.また、1013年(平成25年)には日本口腔筋機能療法学会の理事長に就任した。その後任として末石研二が主任教授となった。
 
 末石は1954年(昭和29年)に千葉県に生まれる.1979年(昭和54年)に東京歯科大学を卒業した。同年、歯科矯正学講座卒後研修課程の5期生として入局し、その後助手、講師、准教授を経て2007年(平成19年)に東京歯科大学歯科矯正学講座主任教授となる。
末石は2019年(平成31年)に定年退職を迎えたが、その間、日本顎変形症学会理事、日本口蓋裂学会理事等に任じられ、2017年(平成18年)には第27回日本顎変形症学会大会長を務めている。その後任として西井 康が主任教授となった。
 
終わりに
 教室の歴史を辿ると、高山齒科醫学院、東京歯科医学院に辿り着く事ができる。歯科医学の黎明期より不正咬合が歯科疾患として認識され、講義されている所に本教室の源流を認める。また、血脇守之助がAngleに図の転載許可を求めた事実は、本学の建学者がもつ高潔な精神を示し、畏敬の念を抱くものである.
 志を持って海外に学び、苦学して得た知識、技術を教えることで、その種が芽吹き、木となり、林となり、森へと育つ.榎本美彦が1914年(大正3年)に矯正科を開設し、臨床教育を開始した。その時点を教室の創立として、2014年を100周年とした。
 また、榎本、齋藤がAngleの唇側弧線のみならず、舌側弧線装置を用い、戦後、山本の時代に先見の明を持って専門教育の基盤を整え、瀬端、一色、谷田部、山口らは多様な矯正装置を共通する診断体系の中で用い、医局員が切磋琢磨する中で教室の発展を指導して来た.次の100年の構築に向け、継承と発展の道を歩み、歯科矯正学講座の発展を祈念するものである。
 
 本稿は2014年11月3日に挙行された東京歯科大学歯科矯正学講座100周年記念祝賀会に合わせ発行された、100周年記念誌に掲載したものを一部修正し、掲載するものである。(2022年5月30日)